茶道と言えば、美しい所作や作法にお点前、そして美味しいお菓子と古い茶道具、これらが一般的な印象として知られています。その横で、「茶道」と言う言葉が示すとおりの「抹茶」の存在が非常にお粗末な扱いを受けているようにも見えます。

茶道が茶道としてその形を整えるよりはるか以前より、「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」「茶味是禅(ちゃみこれぜん)」と言う言葉が伝えられてきました。「茶禅一味」とは茶と禅は異なるように見えて全く同じところを目指すものである、とする考え方。「茶味是禅」とは茶の味は、それそのものが禅の修行の結果であるとする言葉。

これら二つの言葉にもとづき、今から450年ほど前に千利休が編み出したのが現代茶道の基礎となりました。その当時、点前作法と言うものにそこまで厳格な決まり事は無く、多くの武将や町人達がそれぞれに考える流儀で新しい茶の湯の姿を模索しておりました。

利休が凄かったのは、そんな武将や町人達の中で唯一、「黒」をモチーフにした茶道具を生み出し、亭主が練り上げた抹茶そのものに焦点が当たるように仕向けたこと。つまり薄暗い茶室の中で黒い茶道具は、その存在を主張しません。現代と同じように点前作法や茶道具に目が行きがちだった当時の風潮にあらがい、「茶室の中で主張せず、ただ抹茶のみを引き立てる」茶道具を生み出したのが千利休だったのです。

この黒い茶道具と利休の考え方は当時の世の中を一世風靡し、利休のもとに200名を優に超える大名達が弟子入りし、その思想を学びました。利休の茶とはすなわち、「茶禅一味」「茶味是禅」を地で行くものだったのです。

時は過ぎ、昭和・平成を越え今や令和。利休が理想とした茶の姿は既に忘れ去られ、茶道に入門している人々の大半が茶の味に気づかず、ただ点前作法を覚えること、ただ茶道具を買い集めるばかりになっております。茶道師範の大半も茶の味の存在に気づかないまま、弟子達に歪んで伝えられてしまった利休の教えを伝授するばかり。誰も茶の味を引き出す事には注目しておりません。

しかしながら、わざわざ足を運んだ茶会で不味い茶を出されたら誰でも嫌な思いをすることでしょう。筆者自身も遠いところせっかく伺った茶会で、甘みも旨みも無い、ただひたすら苦くダマだらけでぬるい茶を飲まされて嫌な思いをしたことが何度となくあります。時には余りのまずさに吐き気を催して帰った事もあるほどです。

美味しい抹茶を飲んでみたいと感じるのは誰でも同じ事です。そして筆者が考えるのは、その抹茶の旨さを引き出すことこそが究極の茶道である、と言うこと。茶を点てることを禅の修行と同じと考え、点前作法を通じて無の境地にいたります。

筆者が目指すのは、万人が心の底から酔いしれることができる茶味。その茶味を引き出す研究を続けて十年余、いまやどこのどんな茶人にも負けることがない技術を身につけることに成功しました。

茶人CHABITOの茶事・茶会では、茶味に妥協はありません。なぜなら本物の「茶道」のあり方を追求し、多くの茶畑を訪れた中で見いだした唯一無二かつ世界最高峰の茶を取り寄せ、茶味を引き出すのに最も合う水を選び抜き、磨き上げた技術で茶を点てるから。

筆者が目指すのは、利休が究めようとした茶、そのものなのです。

茶人CHABITO 小早川宗護

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